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代表GK川島がロシアワールドカップアジア最終予選で活躍できたのかその理由を考えてみた。

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先日行われた日本対タイ。UAE戦に続いての勝利。内容についてはややタイに主導権を握られる場面もあったり、幾度かのピンチもむかえたりしましたが、結果として無失点での勝利を手に入れることができたのはとても喜ばしいことですね♪

 

となるとやっぱり、このブログはGKブログですから川島選手のことを取り上げないわけにはいかない。前節のUAE戦に続いての先発出場、完封勝利に彼の活躍があったのは言うまでもないですからね。

 

www.theworldmagazine.jp

 

 

さてそんな川島選手ですが所属しているFCメス(フランス)では出場機会に恵まれておらず、前節のUAE戦での起用は一種の賭けのようにも感じられましたね。実力ある選手とはいえ、試合に出ていない選手をいきなり出すというのはハリルホジッチ監督としても勇気がいる決断だったでしょう。あの試合で日本が負けていたら、しかも川島選手がミスしたりして負けたとしたらハリルさんは相当叩かれたはず。

 

そう考えると、あのUAE戦での活躍というのは監督が川島選手は日本だけでなくハリルホジッチ監督にとっても「救世主」だったのかもしれません。

 

それにしてもあの試合の川島選手の活躍は素晴らしかったですよねえ。ただ試合見ながらふと思ったことがあって「何で試合に出てないのにこれだけ高いパフォーマンス発揮できるんだろうか?」ってことです。

 

そこで、今回は僕の完全なる独断と偏見ではありますが、

 

「なぜ、川島選手は急きょ出場したアジア最終予選の試合で活躍できたのか?」

 

その理由を書いてみることにしました。もう一回言うけど独断と偏見なので悪しからず(^^;

 

①経験値の高さが活きた

 

今回招集された川島、西川、林という3人のGK陣の中で川島選手は日本代表の試合に70試合以上出場しており、西川選手の倍以上の試合数をこなしています。

 

さらに言えば、ワールドカップ2大会出場、前回のブラジルワールドカップの予選、アジアカップなど真剣勝負の場での出場も多く、中東や東南アジアといった厳しいアウェイでの闘いもこなしてきています。前回のワールドカップ予選ではヨルダン、オマーン、イラクといった中東勢との戦いもありましたので、今回アウェイのUAE戦も中東の独特の雰囲気にのまれることなく平常心でプレーできたのではないでしょうか?

 

②所属チームでの練習を意識高くこなしてきた

 

プロの選手はみんな向上心があると思いますが、川島選手は特にベテランということもあって自分のモチベーションをうまく保つのが上手そうです。たとえ所属チームで出場することはできなくても、普段の練習から学べることは沢山あります。

 

それにFCメスはフランスのチームなのでフランス人を始めヨーロッパや南米、アフリカの選手のシュートを練習時から受けるわけで、やはり彼らのシュートのスピードなどは並の日本人やほかのアジア勢と比べても高いものがあるはずです。

 

個人的には以前このブログにも書いたように、試合に出れないなら日本のチームに戻ってきて試合に出場してほしいところではあります。試合経験からしか得られない感覚などもあると僕は思っているので。

 

gk-soccer.hatenablog.com

 

ただもしかしたら海外のチームで練習する中で、川島選手自身が「Jリーグの試合に出るよりも、たとえチームで試合に出れなくても海外の選手たちと普段から練習した方がレベルが上がる」ということを感じているのかもしれません。そしてそれを実感しているのかもしれない。

 

彼のレベルが上がっているのかどうかははっきりとはわかりませんが、少なくともUAE戦とタイ戦の2試合を見る限り衰えというものは感じなかったので、海外のチームに所属することは彼にとっていいことなのかなぁと思っています。これがフィールドプレイヤーとなるとまた違うのかもしれませんが‥‥‥。

 

まとめ

そんなわけで、簡単ではあるけど川島選手がUAE戦タイ戦で活躍できた理由を簡単に書いてみました。

 

次は6月にアウェイでのイラク戦がありますが、はたしてどのGKが選ばれるのか楽しみに待ちたいと思います♪

 

それではまた次回もよろしくお願いいたします♪

 

参考サイト

Wikipedia